
宇多天皇の黒猫(寛平御記)
24日に行なわれた長崎の町ねこ調査隊塾主催の「長崎の町ねこ講座 ねこを知る、ねこを楽しむ」で資料として使ったので、まとめておきます。
宇多天皇(867~931年・第59代天皇・在位887~897年)が在位期間中に書いた日記「宇多天皇宸記(寛平御記)」は、現存する天皇の日記としては最古のものですが、書かれた全てが伝わっているわけではなく、断片的にいくつかの日記が残っているだけです。
そのわずかな断片のなかに、当時宇多天皇が飼っていた黒猫に関する記述があること、そしてそれはそのまま、現存する最古の「猫飼い日記」となることは、いろいろなブログで紹介されています(→たとえばくるねこ大和「寛平御記」2010年2月15日)。
その親バカぶりはほほえましく、ねことひととの関係すべからくかくあれかし、とさるねこ父には思えます。原文と対訳を載せてみます。
寛平元年二月六日。朕閑時述猫消息曰。驪猫一隻。大宰少貳源精秩満来朝所献於先帝。
寛平元年旧暦2月6日(=現在の暦に直すと889年3月11日)。暇に任せて、私の猫について述べてみよう。この1匹の黒猫[1]は、大宰府次官であった源精[2]が任期を終えて都に戻り、先帝(=光孝天皇[3])に献上したものである。
[1]「驪」は純黒色の馬のこと。
[2] 嵯峨天皇(786~842年・第52代天皇・在位809~823年)の孫にあたり、嵯峨天皇の曾孫にあたる宇多天皇からはいとこおじ(遠縁のおじ)に当たる。
[3] 光孝天皇(830~887年・第58代天皇・在位884~887年)は、宇多天皇の父。源精と同じく、嵯峨天皇の孫にあたり、いとこ同士になる。
愛其毛色之不類。餘猫猫皆淺黑色也。此獨深黑如墨。爲其形容惡似韓盧。
その毛色は類い希で、他の猫がみなどこかぼやけた灰黒色なのに比べ、この猫だけは墨のように真っ黒で、まことに愛おしい。まるで韓廬[4]のようである。
[4]「韓廬」は、戦国時代に韓の国で産出した黒い猟犬を指す。
長尺有五寸高六寸許。其屈也。小如秬粒。其伸也。長如張弓。
背の高さは6寸(18cm)ほど、体の長さは1尺5寸(45cm)ほどである。小さくかがむとまるで小さな黒黍の粒のようだし、大きく伸びるとまるで弓を張ったように長い。
眼精晶熒如針芒之亂眩。耳鋒直竪如匙上之不搖。
瞳はきらきらとして針のように光り、耳はスプーンのようにまっすぐに立って揺るぎもしない。
其伏臥時。團圓不見足尾。宛如堀中之玄璧。其行歩時。寂寞不聞音聲。恰如雲上黑龍。
ちんまりと猫座りをしている時は、丸まって足もしっぽも見えず、まるで岩屋の中に鎮座する黒い宝玉だ。歩くときはひっそりと音も立てず、まるで雲の上をゆく黒龍だ。
性好道引暗合五禽。常低頭尾著地。而曲聳背脊高二尺許。毛色悅澤盖由是乎。亦能捕夜鼠捷於他猫。
導引術の気法を好むようで、その動きはちょうど五禽戯(=虎、鹿、熊、猿、鳥の動きを真似する運動法)と同じである。いつも頭を低くしてしっぽを地面に着ける姿勢をしているが、立ち上がってびよーんと背中を伸ばすと2尺(60cm)ほどの高さになる。このような気法を身につけているから毛色が美しいのであろうか。さらに、夜ネズミを捕えるすばしっこさは他の猫以上である。
先帝愛翫數日之後賜之于朕。朕撫養五年于今。毎旦給之以乳粥。
先帝(父である光孝天皇)は、この黒猫を数日かわいがったのち、私に下さった。私がこの猫を飼い始めて5年になるが、毎朝乳粥を与えてかわいがっている。
豈啻取材能翹捷。誠因先帝所賜。雖微物殊有情於懐育耳。
それはただこの猫が何か優れているからそうするのではなく、先帝が下さったものであるから、どんな小さなものでも大事にしているのである。
仍曰。汝含陰陽之氣備支竅之形。心有必寧知我乎。猫乃歎息舉首仰睨吾顔。似咽心盈臆口不能言。
猫に向かってこう言ってみた。「おまえは、心も体もきちんと備わっている。心があれば、きっとわたしのことがわかっているね」と。しかし猫は、ためいきをつき、わたしの顔をじっと見上げ、なんだか胸がいっぱいの様子だったけれども、ものを話すことはできなかったのだ。
「わたしの猫は、こんなに美猫で、こんなに優れているのだ」と、あらん限りの美辞麗句を並べる宇多天皇の姿は、なんともほほえましく、また親近感を覚えます。当時の日本においては、御所内においてさえも、毎朝「乳粥」を食べさせるなんて贅沢の極みだったでしょうが(毎日シーバどころではない)、しょうがないじゃないですか、ねこさまだもの。
ねこに向かって「おまえはきっとわたしのことがよくわかっているね」なんて、バカみたいだけれど、でも、親バカ飼い主ならみんなやったことがあるはず。
世の中に暮らすどのねこにも、こんなふうにかわいがってくれる飼い主がいれば、ねこもひともハッピーだと思います。
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